プログラミング教育の必修化、GIGAスクール構想の実現―教育が大きく変わろうとしている今、後藤匠(株式会社Libry・代表取締役CEO)が改めて日本の教育について考えるこのシリーズ。前回は、教育基本法や教育振興基本計画に触れましたが、今回は「学習指導要領」について考えます。
ゆとり教育の登場まで
私自身は1989年生まれで、いわゆる「ゆとり世代」にあたります。ですから、それ以前の教育は受けていないのですが、様々な資料をひもとき、なぜ「ゆとり教育」が生まれたのか、その問題点は何だったのかを考えてきました。
戦後、日本の教育は、連合国総司令部(GHQ)の指導の下で、戦前とは全く異なる制度になりました。教育の方針もアメリカの影響を色濃く受け、「児童中心主義」、「経験主義」によるものとなりました。しかし、やがて、子どもの読み書き能力が低下したという不満が保護者から出始めました。その一方、1950年の朝鮮戦争をきっかけに日本の景気は回復し、1950年代半ばには高度経済成長期を迎えます。これに伴い、労働人口が第一次産業から第二次・第三次産業へとシフトしました。また、1957年には、当時のソビエト連邦が「スプートニク」という人工衛星の打ち上げに成功し、世界に衝撃を与えました。
1952年にGHQが廃止されたあと、こうした社会環境のもとで、日本は独自の教育政策を模索し、その1つとして、1958年に最初の学習指導要領をつくりました。この学習指導要領と、次の学習指導要領(1968年改訂)は、「能力主義」であると言われます。産業の発展に必要な人材を育成するため、基礎学力と科学技術教育を重視した詰め込み型の教育が行われたのです。この間に、高校進学率・大学進学率は上昇しました。「いい大学を卒業して、いい会社に入る」ことが保護者と子供たちの目標となり、受験戦争が激化しました。
高度経済成長期は、均質なモノをつくれば売れる時代でした。そういう時代には、「一定の知識を詰め込んで、正しくモノをつくれる人」が求められたのではないかと、私は思っています。しかし、1973年のオイルショックを機に、経済成長は減速しました。同じころ、詰め込み型の教育についていけない「落ちこぼれ」が問題となりました。そして、1977年改訂の学習指導要領に「ゆとり」という言葉が登場し、授業時間と学ぶべき内容の削減が行われたのです。
ゆとり教育の実現には長い時間がかかった
「ゆとり教育」は、「勉強さえできれば偉い」ということではなく、勉強以外のところにもちゃんと時間を使いながら豊かな人間性をつくろうという考えで出てきたのだと思います。しかし、1977年には大学入試に共通一次試験が導入され、受験戦争は収まるどころか加熱しました。実際の因果関係はよくわかりませんが、この頃から、中学受験がはやり始め、塾に通う子供たちも増えました。結局、学校の授業時間は削減されたのですが、初等中等教育の重要な出口である大学受験において「知識がある人を評価する」という考え自体が変わらなかったため、大学受験のために勉強する時間は変わりませんでした。削減された授業時間は塾に行くなどの時間に代替され、「ゆとり」を生むための時間に使われなかった子供達も多かったと思います。
そこで、ゆとり教育をさらに推し進め、個性を重視した教育を行うために、1989年に学習指導要領が改訂されました。ちょうど、その少し後にバブルが崩壊し、「よい大学を出て、よい会社に入る」ことが目標ではなくなり、もっと多様に生きなければいけないとか、余裕をもって生きなければダメだというような価値観が生まれてきます。結局、私の印象としては、バブル崩壊のころまでは、高度経済成長期と同様に、「一定の知識を正しく習得し、それをそのままアウトプットできる人材」を育てることが、教育に求められていたのだろうと思います。
ゆとり教育が実際に動き出したのは、1998年に改訂された学習指導要領からだととらえています。この学習指導要領が小中学校で施行された2002年には、学校が週休2日制になったり、「総合的な学習の時間」が導入されたりしました。このころになると、インターネットが登場してモノの価値も多様化し、均質なモノをつくりだす人材よりも、自ら考えて新しい価値を生み出せる人材を育てることが必要になったのだと思います。
ゆとり教育への批判と脱ゆとり教育
しかし、この学習指導要領については、施行前から、授業時間の大幅な削減が学力低下を招くという批判が各界で巻き起こりました。そして、2008年改訂の学習指導要領では、授業時間を増加させるなど「脱ゆとり教育」に舵が切られ、ゆとり教育の改革は失敗だったと言われることになりました。
私は、そうなってしまった大きな原因の1つは、目標が達成されたかどうかの評価指標をきちんと定めなかったところにあると思います。ゆとり教育と言いながら、結局はPISAの数学のテストのランキングなどが評価指標として使われ、「ゆとり教育の結果、日本の数学力は下がった」と言われたりしました。しかし、ゆとり教育の目標は、数学のテストの点数を伸ばすことではなかったはずです。私は、ゆとり教育が始まってから世界で活躍するジュニア層が増えてきていると感じています。もちろんグローバル化という側面もありますが、ゆとり教育によって多様な価値観が生まれ、いろいろな方面でプロフェッショナルとなるような若い人たちが生まれてきたのでしょう。しかし、ゆとり教育のそういう成果はあまり評価されていません。
ゆとり教育が失敗だと言われるもう1つの原因は、先にも触れましたが、ゆとり教育の出口である大学の入試改革が伴わなかったことだと思います。さらに言えば、大学教育の先にある就職活動が学歴偏重であることで、大学進学に多様性が生まれず、偏差値至上主義に基づく志望校選定を多くの受験生が行ったため、受験生に「ゆとり」が生まれなかったことです。ゆとり教育は、基本的には、初等・中等教育の変革でした(注:小学校は初等教育、中学校は前期中等教育、高等学校は後期中等教育)。しかし、大学の入試改革は行われなかったため、多くの人は学力偏重の行動をとり、ゆとり教育のコンセプトが大きくブレてしまったのです。ゆとり教育の目指す人間像に対して社会全体のコンセンサスが取れていれば、もしかしたら評価はまったく変わっていたかもしれませんが、大学入試はそのままで初等・中等教育だけ変えたので、ちぐはぐになってしまいました。
今回の学習指導要領改訂(2017年)では、知識と技能を身につけるだけでなく、それを社会に役立てようとする力や、思考力・判断力・表現力なども育むことを目指しています。また、2015年から議論が開始された「高大接続システム改革会議」では、高等学校の学校教育の改革から、入試改革、大学教育まで一貫した教育改革を行うべく、議論が重ねられてきました。例えば、入試改革や大学教育においては、各大学が「ディプロマ・ポリシー(卒業認定の方針)」、「カリキュラム・ポリシー(教育課程の方針)」「アドミッション・ポリシー(入学者受入れの方針)」の3つの方針を定めて、アドミッション・ポリシーに基づく入学者選定の方法の検討を実施することなどが方策として提示されました。ディプロマ・ポリシーを明確にすることにより学歴偏重でない学生と企業のマッチングを行いながら、アドミッション・ポリシーに基づく多様な入試を行う。それにより、志望校や入学試験を多様化し、学力・学歴偏重のカルチャーからの脱却を図ろうとしているのだと、私は捉えています。
私はこの改革に非常に期待しているのですが、「記述式テストの導入」「英語の民間試験活用」などの経過を見ても、改革が容易でないことも感じています。次回は、この点についてお話します。
参考にさせていただいた資料
- 野崎剛毅 「学習指導要領の歴史と教育意識」 國學院短期大学紀要23 巻 p. 151-171(2006)
- 中井浩一 「学力低下」論争と「ゆとり」教育を検証する(2012)
- 田中耕治 「現代日本のカリキュラム改革の特徴と課題」 佛教大学教育学部学会紀要 第18号(2019)
- 文部科学省「高大接続システム改革会議」